羅馬 羅馬男の馬主人生 1975年
- romanius2144
- 2 日前
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・ロマニウス
最初の持ち馬ロマニウスは、羅馬オーナーにとって思い入れの深い馬であった。しかし、その衰えは誰の目にも明らかであり、引退を勧める声が各所から上がっていた。それでも羅馬オーナーは、もう一年だけ彼を走らせることとした。
1972年3月から勝っていないロマニウスは、1975年を昨年と同じ佐賀記念JpnIIIで始めた。昨年9着だった佐賀記念だったが、今年は12頭立ての12着。全く見せ場がなかった。
パワーのあるロマニウスにあった馬場は高知競馬しかないと考えた陣営は、翌月、黒船賞JpnIIIに挑んだ。だが、ここでも11頭立ての11着と殿負けを喫した。
もはや再起の目途が立たないロマニウスは、最終戦を小回りの浦和記念JpnIIに定めた。5回に渡り最低人気であったロマニウスも、引退レースという事もあってか、浦和記念では7番人気に押された。だが、その人気もロマニウスの老化を覆すことはできず、最終レースも殿負けで終えて引退した。
父セントクレスピン、母パーダルキャメロン、母父ブリッカバックという血統のロマニウスは、31戦6勝。生涯の賞金は1億4080万円であった。引退後はロマニウス牧場初の種馬として繋養されることとなった。
・チャミン
1974年を全勝で終えたチャミンの勢いは1975年になっても衰えることはなかった。初戦の仁川ステークスで逃げ切り勝ちを決めて同レースを連勝したのを皮切りに、吾妻小富士ステークスも連勝、三宮ステークス初勝利、マリーンステークス連勝と10連勝を決めたのである。
怒涛の快進撃を続けるチャミンには世間の注目も集まり、有馬記念の人気投票でも上位50位以内に入るなど、重賞勝ちのない馬としては異例の人気を集めた。
そんなチャミンは昨年に続くブラジルカップの連勝で勝利記録を11に伸ばそうとしたが、久々が響いたのか、ここでは4着に敗れてしまった。
続くカノープスステークスも3着に敗れたチャミンであったが、年内最後の師走ステークスでは再び勝利し、前2走の汚名をそそいだ。
・プルトニア
これまで幾度もの乗り替わりに泣いてきたプルトニアは、1975年も同様の問題に苦しめられることとなった。4度の勝ち上がり全てで手綱を取ってきた滝野川騎手は再び乗り替わり、プルトニアの鞍上は不安定になったのである。
その結果、東村騎手の大阪―ハンブルクカップでは12着、白井騎手鞍上のオクトーバーステークスでは18着、和田騎手を背にしたアンドロメダステークスでは15着と大敗を喫して1975年のシーズンを終えることとなった。
度重なる乗り替わりに加え、オープンクラスの壁も不憫に思った陣営は、プルトニアを引退させ、繁殖入りさせることとした。
プルトニアの父はNever Say Die産駒のラークスパー、母はカバーラップ二世産駒のセカンドマレヴァという血統であった。
・ロマーナ
1974年は大阪―ハンブルクカップでしか勝ち星をあげられなかったロマーナは、滝野川騎手を鞍上とした小倉牝馬ステークスGIIIで1975年シーズンを始めた。しかし、昨年に滝野川騎手の考案した馬ごみを避けた直線一気の戦法は、直線の短い小倉競馬場では真価を発揮できず、ここでは2着に惜敗した。大島騎手を鞍上とした小倉大賞典GIIIでも3着に敗北したことからも、ロマーナは直線の長いコースに適していることは明らかであった。
放牧を挟んで大島騎手と挑んだ府中牝馬ステークスGIIIでは、東京の長い直線を活かしたものの、初の重賞タイトルは、昨年のローズステークスGIIを制したイットーに阻まれた。
九州を実家とする羅馬オーナーは、初の重賞制覇を地元であげたかったようで、彼は再びロマーナを小倉競馬場で走らせた。しかし、今度の小倉記念GIIIでは、やはり短い直線に苦しめられたロマーナは4着に終わっている。
周囲からの助言を受けて次の目標を秋の女王決定戦エリザベス女王杯GIに定めたロマーナは、再び放牧を挟み、10月のオクトーバーステークスをたたいて本番へ向かうこととした。滝野川騎手を再び鞍上としたオクトーバーステークスでは、相手緩和もあったが、東京の直線を味方につけ堂々の一着入選を果たした。
そしていよいよ大一番のエリザベス女王杯、ロマーナにとっても羅馬オーナーにとっても2年ぶりとなるGIの舞台。前回のGIであった桜花賞では6番人気の6着と着外に終わったが、今回は、前走の強い走りもあり2番人気に押されていた。
ゲートが開くと、ロマーナはいつものように馬群の外に着け、滝野川騎手からの合図を待った。名物、淀の坂の下りを利用して一気にスピードをつけたロマーナは、最後の直線で後方から一気に差し切り勝ちを決め、見事、羅馬オーナーに初の重賞タイトル、それもGIタイトルを届けた。レコードを更新した衝撃的な勝ち方から、ロマーナ自身も歴史的名牝の誉れを受けた。
・チェッカーイチバン
1勝クラスの壁に苦しめられていたチェッカーイチバンは、1975年の緒戦も苦戦で始めることとなる。峰岸騎手を鞍上にした1勝クラス戦では、直線で伸びあぐねて再び掲示板外の7着に終わった。しかし、西条騎手を背に挑んだ次走の1勝クラス戦では展開がはまり1着入線を果たし、なんとか勝ち上がりを決めた。
だが、2勝クラスの壁もやはり厚かった。引き続き西条騎手を鞍上とした潮来特別では10着、峰岸騎手に手戻った横津岳特別では6着、西条騎手と共に挑んだ阿賀野川特別と九十九里特別ではそれぞれ10着と4着と苦戦を強いられた。
10月に挑んだ3歳以上2勝クラスでも8着と掲示板を外したが、続く南部特別では再び展開の助けを受け、西条騎手と共に3勝クラスへの勝ち上がりを果たした。そして、またもやクラスの壁が立ちはだかり、グレイトフルステークスでは13着の惨敗を喫した。
・チェッカーコウソク
フロラベルとスピードシンボリとの間に生まれたチェッカーコウソクは、2月の京都で遅いデビューを果たした。だが、洲崎騎手を鞍上とした新馬戦では8着と大敗。奈良井騎手に乗り替わった未勝利戦でも6着と掲示板を外したことから、陣営は戦場をダートへ切り替えた。すると3着という惜しい競馬をしたことから、チェッカーコウソクの主戦場は芝からダートへ移された。そして6月、乗り替わった井上騎手はチェッカーコウソクを勝利に導いた。
1勝クラスへ勝ち上がったチェッカーコウソクであったが、多くの新人オーナーが直面する問題に再び直面した。即ち、有力ジョッキーの乗り替わりである。チェッカーコウソクを勝利へ導いた井上騎手は、滝野川騎手のように多忙であったため、都合が付かず、永野、峰岸、松山と次々とジョッキーが替わっていったのである。その結果、チェッカーコウソクは、4着、5着、6着と少しづつ順位を落としていった。
・レヴィン
幼駒セールで購入した、父オンスロート、母クリエイション、母の父クレペロという血統の馬は、稲妻のような走りを期待されてレヴィンと名付けられた。
9月の中山競馬場のダート1800メートルでデビュー戦を迎えたレヴィンは、奈良井騎手を鞍上とした緒戦こそ3着と惜敗したものの、峰岸騎手と共に挑んだ同距離の新潟競馬場の未勝利戦で見事勝ち上がった。続く1勝クラスも峰岸ジョッキーと臨んだが、ここではクラスの壁に阻まれ、10着に沈んだ。
・チェッカーオテンバ
オートキツを父とするフロラベルの子は、幼駒の頃から暴れん坊な馬であった。その個性的な性格からチェッカーオテンバと名付けられた牝馬は、7月の福島競馬場で行われた新馬戦で強い勝ち方を示した。
ロマーナのような活躍を期待されたチェッカーオテンバは、翌年のクラシックも視野に、9月の中山競馬場で戦われるサフラン賞に挑戦したが、ここでは8着に終わった。

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