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羅馬 羅馬男の馬主人生 1977年
975年にロマニウスとプルトニアが、1976年にチャミンとロマーナ、チェッカーイチバンが引退したのに加え、羅馬オーナーに初勝利を含む多くの勝利を届けてきた滝野川騎手も勇退を決断した。 世代交代が明らかな1977年は、羅馬オーナーにとっても、競馬界にとっても地味な一年となった。 ・レヴィン 羅馬オーナーの次なるエースと期待されていたレヴィンは、オープン戦の壁に苦しめられていた。昇級2戦を9着で終えたレヴィンは、1977年は惨敗を繰り返した。つまり、レグルスステークス15着、平安京ステークス14着、大阪スポーツ杯16着、ベテルギウスステークス16着といずれも殿負けであった。 これ以上レヴィンに競走馬として期待できないと判断した陣営は、レヴィンを種牡馬として繋養することとなった。こうしてレヴィンは13戦4勝という地味な戦績で引退した。 ・チェッカーオテンバ 1976年の間、勝ちきれない惜しい競馬を続けていたチェッカーオテンバは、1977年の緒戦である逢坂山特別でいきなりの勝利を飾った。だが、その後は4着、6着、5着、3着と再び惜敗を続け、10月の大原ス


羅馬 羅馬男の馬主人生 1976年
・チャミン 1974年にはレコード勝ちを決め、1975年までに10連勝の勢いを誇っていたチャミンであったが、その走りにも加齢の陰が見え隠れするようになっていた。しかし、その堅実な走りから馬券ファンが多いのみならず、派手な戦績から一般のファンも多いチャミンは、恥ずかしい競馬をするわけにはいかなかった。 1975年を師走ステークスの勝利で終えたチャミンは、1976年の緒戦である仁川ステークスでは2着に惜敗したものの、続く吾妻小富士ステークスでは見事一番人気に応えてみせた。3年連続で吾妻小富士ステークスを勝利してみせたチャミンは、周囲から期待される重賞タイトルをつかみ取るため、5月平安ステークスGIIIに挑んだ。 しかし、ここでの敗北はファンも陣営も、そしてチャミンにとっても衝撃の結果となった。これまでオープン戦で最強のダート馬の名をほしいままにしてきたチャミンが、重賞戦では1番人気ながら9着という惨敗を喫したのである。 陣営は重賞戦を諦め、再びチャミンの主戦場であるオープン戦に焦点を合わせることとした。しかし、チャミンが受けた精神的なダメージは深く、


羅馬 羅馬男の馬主人生 1975年
・ロマニウス 最初の持ち馬ロマニウスは、羅馬オーナーにとって思い入れの深い馬であった。しかし、その衰えは誰の目にも明らかであり、引退を勧める声が各所から上がっていた。それでも羅馬オーナーは、もう一年だけ彼を走らせることとした。 1972年3月から勝っていないロマニウスは、1975年を昨年と同じ佐賀記念JpnIIIで始めた。昨年9着だった佐賀記念だったが、今年は12頭立ての12着。全く見せ場がなかった。 パワーのあるロマニウスにあった馬場は高知競馬しかないと考えた陣営は、翌月、黒船賞JpnIIIに挑んだ。だが、ここでも11頭立ての11着と殿負けを喫した。 もはや再起の目途が立たないロマニウスは、最終戦を小回りの浦和記念JpnIIに定めた。5回に渡り最低人気であったロマニウスも、引退レースという事もあってか、浦和記念では7番人気に押された。だが、その人気もロマニウスの老化を覆すことはできず、最終レースも殿負けで終えて引退した。 父セントクレスピン、母パーダルキャメロン、母父ブリッカバックという血統のロマニウスは、31戦6勝。生涯の賞金は1億4080万

