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羅馬 羅馬男の馬主人生 1977年

  • romanius2144
  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

975年にロマニウスとプルトニアが、1976年にチャミンとロマーナ、チェッカーイチバンが引退したのに加え、羅馬オーナーに初勝利を含む多くの勝利を届けてきた滝野川騎手も勇退を決断した。

世代交代が明らかな1977年は、羅馬オーナーにとっても、競馬界にとっても地味な一年となった。


・レヴィン

羅馬オーナーの次なるエースと期待されていたレヴィンは、オープン戦の壁に苦しめられていた。昇級2戦を9着で終えたレヴィンは、1977年は惨敗を繰り返した。つまり、レグルスステークス15着、平安京ステークス14着、大阪スポーツ杯16着、ベテルギウスステークス16着といずれも殿負けであった。

これ以上レヴィンに競走馬として期待できないと判断した陣営は、レヴィンを種牡馬として繋養することとなった。こうしてレヴィンは13戦4勝という地味な戦績で引退した。


・チェッカーオテンバ

1976年の間、勝ちきれない惜しい競馬を続けていたチェッカーオテンバは、1977年の緒戦である逢坂山特別でいきなりの勝利を飾った。だが、その後は4着、6着、5着、3着と再び惜敗を続け、10月の大原ステークスでは12着の大敗を喫した。

比叡ステークスでも6着に敗れたチェッカーオテンバは、競走馬を引退し、ロマニウス牧場で繁殖牝馬として繋養されることとなった。


・チェッカーコウソク

乗り替わりの犠牲者チェッカーコウソクは、1977年も同様の悩みに苦しめられることとなった。その結果、4着、2着、16着、2着、2着と鳴かず飛ばずの競争を強いられた。



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