検索


羅馬 羅馬男の馬主人生 1974年
・ロマニウス 2年近く勝利から遠ざかっているロマニウスは、昨年に引き続き、佐賀記念JpnIIIでの逆転を図った。しかし、結果は昨年以下の9着であった。 引退を薦める声もあがる中、現役を続行したロマニウスは、続いて大阪ーハンブルクカップに挑戦した。同厩舎・同馬主の中で最も実力のあるロマーナと初めて一緒に出走したロマニウスであったが、ここでも17着の大敗を喫した。 放牧に出されたロマニウスは、10月にブラジルカップを、11月にカノープスステークスをチャミンと共に走るも、両方とも殿負けに終わっている。もはや、ロマニウスがかつての走りを見せることはできないと誰もがささやいた。 ・チャミン 1973年下半期を全連対で終えたチャミンは、1974年に全勝という驚くべき記録を打ち立てることとなる。 緒戦の仁川ステークスを勝利した後、吾妻小富士ステークス、栗東ステークス、マリーンステークス、ブラジルカップ、カノープスステークスと破竹の6連勝を決めたのである。しかも、勝ち方は逃げから差しまで自由自在であり、勝ち方も二着に数馬身差をつける圧勝であった。しかも、カノープ


羅馬 羅馬男の馬主人生 1973年
・ロマニウス 一年以上勝利から遠ざかっているロマニウスは、次走を佐賀競馬場で行われる佐賀記念JpnIIIに定めた。3着に終わった名古屋記念と同じく滝野川騎手を鞍上に挑んだ地方交流重賞であったが、ここでもロマニウスは地方の強豪を前に敗北を喫することとなった。しかも、6着という掲示板すら外す敗北である。 この時の敗北がロマニウスの心身に大きなダメージを負わせてしまったのか、次走、得意とする京都競馬場で行われた平安ステークスGIIIでは11着と惨敗した。 だが、それ以上にロマニウスのプライドを傷つけたのは、7月に函館競馬場で行われたマリーンステークスであった。羅馬の持ち馬であるチャミンと共に出走したマリーンステークスは、ロマニウスに自信を取り戻してもらうはずの競争であった。しかし、終わってみれば勝利したのはチャミンであり、ロマニウスは同厩舎・同オーナーの格下馬を相手に12着の大敗を喫したのである。 心身のダメージと衰えを隠せないロマニウスは、次走の地方交流重賞の白山大賞典JpnIIIでは掲示板に乗る5着と健闘するも、地元で行われたカノープスステークスで


羅馬 羅馬男の馬主人生 1972年
・ロマニウス 1971年を9戦3勝2着1回3着1回の戦績で終えたロマニウスは、1972年のシーズンを2月のアルデバランステークスで始めた。新馬依頼のダート戦となったアルデバランステークスで初のオープン勝ちを飾ったロマニウスは、芝だけでなくダート適正の高さを示した。 翌月、再びダートの仁川ステークスも勝って三連勝したロマニウスが次の戦場に選んだのは、平安ステークスGIIIであった。しかし、ここまでロマニウスを勝利に導いてきた滝野川騎手の予定がつかなかったことから乗り替わった北城騎手が仕掛けどころを間違えたことから、5着の惜敗。オーナーに初の重賞タイトルを届けることはできなかった。 続くシリウスステークスGIIIでは滝野川騎手に手綱が戻るも二着に終わり、ロマニウスの前に重賞の壁が立ちはだかった。 放牧を挟んで臨んだカノープスステークスでは、テン乗りの河原騎手と折り合いが合わずに5着。一番人気を裏切ってしまった。 照準を地方交流競争に切り替えたロマニウスは、滝野川騎手を鞍上に名古屋大賞典JpnIIIに挑むが、3着に終わり、ここでも地方の強豪に重賞タイト

