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羅馬 羅馬男の馬主人生 1975年
・ロマニウス 最初の持ち馬ロマニウスは、羅馬オーナーにとって思い入れの深い馬であった。しかし、その衰えは誰の目にも明らかであり、引退を勧める声が各所から上がっていた。それでも羅馬オーナーは、もう一年だけ彼を走らせることとした。 1972年3月から勝っていないロマニウスは、1975年を昨年と同じ佐賀記念JpnIIIで始めた。昨年9着だった佐賀記念だったが、今年は12頭立ての12着。全く見せ場がなかった。 パワーのあるロマニウスにあった馬場は高知競馬しかないと考えた陣営は、翌月、黒船賞JpnIIIに挑んだ。だが、ここでも11頭立ての11着と殿負けを喫した。 もはや再起の目途が立たないロマニウスは、最終戦を小回りの浦和記念JpnIIに定めた。5回に渡り最低人気であったロマニウスも、引退レースという事もあってか、浦和記念では7番人気に押された。だが、その人気もロマニウスの老化を覆すことはできず、最終レースも殿負けで終えて引退した。 父セントクレスピン、母パーダルキャメロン、母父ブリッカバックという血統のロマニウスは、31戦6勝。生涯の賞金は1億4080万


羅馬 羅馬男の馬主人生 1974年
・ロマニウス 2年近く勝利から遠ざかっているロマニウスは、昨年に引き続き、佐賀記念JpnIIIでの逆転を図った。しかし、結果は昨年以下の9着であった。 引退を薦める声もあがる中、現役を続行したロマニウスは、続いて大阪ーハンブルクカップに挑戦した。同厩舎・同馬主の中で最も実力のあるロマーナと初めて一緒に出走したロマニウスであったが、ここでも17着の大敗を喫した。 放牧に出されたロマニウスは、10月にブラジルカップを、11月にカノープスステークスをチャミンと共に走るも、両方とも殿負けに終わっている。もはや、ロマニウスがかつての走りを見せることはできないと誰もがささやいた。 ・チャミン 1973年下半期を全連対で終えたチャミンは、1974年に全勝という驚くべき記録を打ち立てることとなる。 緒戦の仁川ステークスを勝利した後、吾妻小富士ステークス、栗東ステークス、マリーンステークス、ブラジルカップ、カノープスステークスと破竹の6連勝を決めたのである。しかも、勝ち方は逃げから差しまで自由自在であり、勝ち方も二着に数馬身差をつける圧勝であった。しかも、カノープ


羅馬 羅馬男の馬主人生 1973年
・ロマニウス 一年以上勝利から遠ざかっているロマニウスは、次走を佐賀競馬場で行われる佐賀記念JpnIIIに定めた。3着に終わった名古屋記念と同じく滝野川騎手を鞍上に挑んだ地方交流重賞であったが、ここでもロマニウスは地方の強豪を前に敗北を喫することとなった。しかも、6着という掲示板すら外す敗北である。 この時の敗北がロマニウスの心身に大きなダメージを負わせてしまったのか、次走、得意とする京都競馬場で行われた平安ステークスGIIIでは11着と惨敗した。 だが、それ以上にロマニウスのプライドを傷つけたのは、7月に函館競馬場で行われたマリーンステークスであった。羅馬の持ち馬であるチャミンと共に出走したマリーンステークスは、ロマニウスに自信を取り戻してもらうはずの競争であった。しかし、終わってみれば勝利したのはチャミンであり、ロマニウスは同厩舎・同オーナーの格下馬を相手に12着の大敗を喫したのである。 心身のダメージと衰えを隠せないロマニウスは、次走の地方交流重賞の白山大賞典JpnIIIでは掲示板に乗る5着と健闘するも、地元で行われたカノープスステークスで

