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羅馬 羅馬男の馬主人生 1978年
・チェッカーコウソク 乗り替わりに苦しめられるチェッカーコウソクの状況は、1978年に入っても変わらなかった。深谷、井上、西条がまたがった3レースは、それぞれ7着、4着、2着という結果に終わった。6歳のチェッカーコウソクには引退の陰も見え隠れしていた。 そのような状況の中で行われた7月の1勝クラス戦、6度目の騎乗となる井上はついにチェッカーコウソクを勝ち上がらせることに成功した。そして、2勝クラスへ上がったチェッカーコウソクは、緒戦を驚くべき強さで勝つこととなる。 8月の札幌で行われた札幌日刊スポーツ杯は、チェッカーコウソクが2勝クラスで通用するかどうかの力試しの意味があった。ここに出走する馬の多くは2勝クラスで何度も戦った経験がある上に、舞台となるのはチェッカーコウソクにとって久々の芝だったからである。ステイヤーであるチェッカーコウソクは、ダートを得意としていたが、長距離のダート番組が限られていたこともあり、ここで再度芝の適性を試そうとしていた。陣営にとってテストの意味合いが強かった札幌日刊スポーツ杯だったが、終わってみればチェッカーコウソクに


羅馬 羅馬男の馬主人生 1977年
1975年にロマニウスとプルトニアが、1976年にチャミンとロマーナ、チェッカーイチバンが引退したのに加え、羅馬オーナーに初勝利を含む多くの勝利を届けてきた滝野川騎手も勇退を決断した。 世代交代が明らかな1977年は、羅馬オーナーにとっても、競馬界にとっても地味な一年となった。 ・レヴィン 羅馬オーナーの次なるエースと期待されていたレヴィンは、オープン戦の壁に苦しめられていた。昇級2戦を9着で終えたレヴィンは、1977年は惨敗を繰り返した。つまり、レグルスステークス15着、平安京ステークス14着、大阪スポーツ杯16着、ベテルギウスステークス16着といずれも殿負けであった。 これ以上レヴィンに競走馬として期待できないと判断した陣営は、レヴィンを種牡馬として繋養することとなった。こうしてレヴィンは13戦4勝という地味な戦績で引退した。 ・チェッカーオテンバ 1976年の間、勝ちきれない惜しい競馬を続けていたチェッカーオテンバは、1977年の緒戦である逢坂山特別でいきなりの勝利を飾った。だが、その後は4着、6着、5着、3着と再び惜敗を続け、10月の大原


羅馬 羅馬男の馬主人生 1976年
・チャミン 1974年にはレコード勝ちを決め、1975年までに10連勝の勢いを誇っていたチャミンであったが、その走りにも加齢の陰が見え隠れするようになっていた。しかし、その堅実な走りから馬券ファンが多いのみならず、派手な戦績から一般のファンも多いチャミンは、恥ずかしい競馬をするわけにはいかなかった。 1975年を師走ステークスの勝利で終えたチャミンは、1976年の緒戦である仁川ステークスでは2着に惜敗したものの、続く吾妻小富士ステークスでは見事一番人気に応えてみせた。3年連続で吾妻小富士ステークスを勝利してみせたチャミンは、周囲から期待される重賞タイトルをつかみ取るため、5月平安ステークスGIIIに挑んだ。 しかし、ここでの敗北はファンも陣営も、そしてチャミンにとっても衝撃の結果となった。これまでオープン戦で最強のダート馬の名をほしいままにしてきたチャミンが、重賞戦では1番人気ながら9着という惨敗を喫したのである。 陣営は重賞戦を諦め、再びチャミンの主戦場であるオープン戦に焦点を合わせることとした。しかし、チャミンが受けた精神的なダメージは深く、

